穴ぐらダイアリー

読んで字の如く。

言霊

作家・田辺聖子さんの言葉でこんなものを覚えている。

『言葉を信頼し、あとは読み手の勝手な想像に可能な限り任せるという表現の流儀』

自分の発信する言葉に責任を持つ覚悟があるから信頼するし、そこまで練られた言葉だからこそ、読み手に委ねられるのだと思う。

言葉を天職にする作家や詩人、歌手でなくても、言葉は日常的に誰もが発信する。
口でなくてペンや指を使ってでも、何かしら言葉を出さずにはいられないのが、人間の業なんだろうか。

僧侶の修行にも無言の行があると聞くが、言葉を出さずにいることが苦行の一つであるのは、それだけ人間が、無意識に言葉に頼って生きているからかも知れない。


言葉は使い方発信の仕方によって、ひとを生かしもするし、傷つけたり殺したりもする。
一度出した言葉は引っ込められない。日常においても、その時の自分の感情だけで発した言葉の礫が、思わぬ威力で当たった誰かを深く傷つけてしまう事もある。
傷つけた側が「軽い気持ちだった」と後から言い訳する言葉そのものにも、感覚の麻痺した想像力の欠如を感じる。
少なくとも、自分自身そんな言葉を不用意に発する羽目にならないよう、言葉には責任を持とうといつも意識している。それでも余計な一言やその場限りの言い逃れなどがポロリと出てしまい、後悔することになる。


一方で、誰かを救い上げ、守り、力になる言葉もある。
そんな言葉は命に対する愛情(慈悲)に裏打ちされているようだ。命へ向けられた等しい愛情はそのまま、個別の存在の尊厳を守ることにも繋がるように思う。
自分を含むこの世の全ての人(人以外の命も)は尊厳を持って生きていきたいと望んでいることを知っていれば、自分が発した言葉が自他共に与える影響に気づくはずだ。

だから美辞麗句でなく、命への尊厳をこめた言葉には、心揺さぶる力と輝きがある。
こんな言葉に出会ったとき、私は「言霊」という言葉を思い浮かべる。



最近、作家の志茂田景樹さんのTwitterやブログを読むようになった。
色んなことを呟いておられるが、自ら切り拓いた人生のなかで血肉になった考えや想いを土台にした飾らない言葉に、言霊を感じる。
気休めでも癒しではなく、現実を闘う力が湧く。心が、体が熱くなる。ここで諦めて投げ出すのはまだ早いと、自分に言い聞かせられる。


コロナ禍で感情がしだいに動かなくなっていたことに気がついた。
今日はこんな言葉に出会えたことが幸せだ。
私が言霊が宿る言葉を発せられる日は、来ないかも知れない。けれど、この先も幾多出会う言霊の響きに助けられ導かれて生きてゆけると思う。
いまだからこそ、言葉の力を信じたい。

景樹先生、ありがとうございます。